TOPPAGE
小島淳二 インタビュー 「グラフックが動いたら、今よりもっと楽しいハズ!」
(略)  ・・・ 小島淳二  ・・・e-Spirit

ご出身は佐賀県とのこと。小島さんの少年時代をお聞きしたいのですが?

中学生になったばかりだったかな?
ちょうどその頃、音楽でパンクムーブメントを知って。友人の兄が東京から送ってくれるピストルズやクラッシュなどのカセットを聞いて、熱狂していました。あと、YMO。そんな流れで音楽と深く結びついたアートやグラフィックなどのカルチャーにも興味をもち、中学・高校時代はサブカル全盛だった『宝島』を愛読。僕の世代って案外、少なくないんじゃないかな、こういう人。
そうそう、パンクバンドを結成し、ギターも弾いていました(懐)。

大学進学と同時に東京へ。大学は教育学部美術学科に入られたんですよね?

美術の教員免許をとり、4年後には佐賀へ帰ろうと決意して上京しましたが……。
大学1年の夏、日比野克彦さんの元で舞台美術などの裏方のお手伝いをさせていただき、その縁で4年生までお世話になったんです。
結果、人と違うことをしたいと思うようになり、(まだ黎明期だった)ビデオアートというジャンルに興味をもち、大学卒業後はデジタル編集や合成を手掛ける会社に就職しました。

最初に入った会社ではどのような仕事を?

昼間は合成などの編集の仕事。
例えば、ハワイの砂浜で撮影した映像に映り込んでいる足跡を消す作業を1週間やり続けるような日々。そして通常業務が終わってからが、自分の時間!
夜な夜なスタジオの機材で実験的な映像や写真のコラージュを作り、(当時まだ出始めだった)デジタル機材で何ができるのか? 遊びながら研究していました。モーショングラフィックへの意識が高い時代ではなかったからこそ、動くグラフィックを試行錯誤しながら作っているだけで、それはもう面白かったですね。

デジタル編集のエディターとして5年間勤務した後、活動の幅を監督(ディレクター職)まで広げられるわけですが、当時としては珍しかったのでは?

エディターから監督になったのは僕が始めてだったかもしれませんね(笑)。
エディターとして様々な監督や代理店の方と日々接していくなかで、映像の作り方に興味が湧いてきてしまったわけです。音と映像をどうリンクさせるべきか? この映像にどんなナレーションを入れるべきか?など、もっと考えたいっていう。
ま〜単純な衝動で活動の幅を広げたわけです(笑)。

up

「完成形のレベルをいかに上げていけるか!」

フリーのディレクターとして活動した後、95年に「teevee graphics」を設立されるわけですが、その設立の経緯を教えてください。

当時、モーショングラフィックの面白さ、グラフィックが動くという観点で仕事をしている会社がなかったので、ならば自分で作ろうっていう。
ようするに…グラフィックが動くことで新しい意味、新たな表現方法が生まれると思ったわけです。だから会社を設立して、モーショングラフィックを追求しようと。

「teevee graphics」を設立される前後から、ミュージックビデオやCMの仕事も数多く手掛けるようになりましたよね?

ミュージックビデオに関しては設立当時、ちょうど「avex」全盛の時代で、いろいろな仕事をさせていただきました。例えば「納品まで1週間。写真素材3枚のみでアルバムのスポットを作ってほしい」という依頼にどう応えていけるか……? 急ピッチで製作が進んでいく、現場レベルの判断で映像を製作できる、そんな醍醐味を味わえる時期でもあり、鍛えられました。
CMに関しては、今でも継続的に製作している「資生堂」のお仕事が本格的なスタート。ビューティやファッションという未挑戦のジャンルだからこそ、やりがいも大きくのめり込みましたね。

完成形のレベルをいかに上げるかを試される現場で、編集や音楽も含めて、本当にキレイなもの・格好いいものを製作する難しさ・楽しさを味わうきっかけになった仕事だと思います。

現在に至るまでCMはもちろん、ミュージックビデオに関してもホントに多岐にわたり「「teevee graphics」」名義で製作されていますが、とくに最近携わったもので印象に残っているものはありますか?

少し前にテイさん(テイ・トウワ)の新曲「A.O.R.」を監督しました。テイさんが考えるアダルトでスタイリッシュな“新しい音”だったわけですが、映像を含めたその世界観へのアプローチが面白くて。行きつけのバーで飲み疲れて寝ているおじさんへの応援歌っていう。でも、シニカルかつスタイリッシュ(笑)。スタッフィングも含めて、皆で話し合いをしながら、ひとつの作品に仕上げていく過程がとても楽しく、印象に残っていますね。楽曲はアーティストの力、それゆえ独自の世界観をもっているアーティストとのお仕事はホントにやりがいを感じます。

up


「日本人ならではの美意識を、様々な方法で表現したい!」

小島さんのソロ活動といえば、00年よりスタートしたラーメンズ・小林賢太郎さんとのユニット「NAMIKIBASHI」。その誕生の経緯を教えてください。

「映像でできる笑いの表現方法はないものか?」と考えていた当時、実験的に空いている時間を利用し、映像の展覧会を開催していたんですね。
そんななか、小林さんと出会い、お互いの”笑い”に関する波長が近いことから意気投合。ラーメンズの要素をそぎ落とした笑いの世界観をモーショングラフィックや映像の見せ方で、もっと面白く格好よくしてみたいという思いから、小林さんとユニットを結成しました。

監督・脚本を「NAMIKIBASHI」名義でクレジットしていますが、小林さんとの役割分担は決まっているのですか?

はじめに二人でコンセプトを考えて「絶対、おもしろくなるだろう!」というテーマが見つかると、小林くんが字コンテを書き、その世界観に対して僕が「映像にして面白いか?」を再度考えて、絵コンテにしてフィードバック。
「NAMIKIBASHI」に関しては、そのやり取りを繰り返して、撮影に臨むスタイルをとっています。

日本文化をスタイリッシュな笑いに昇華させた映像で、国内外のショートフィルムフェスティバルで数多くの受賞をされていますが、海外でも賞賛される理由はなんだと思いますか?

う〜ん、なんでだろう。ひとつ言えるのは……映像の中で繰り広げられる、外国人から見た”おかしな国ニッポン”の文化とマナーを表現できているからでしょうね。
外国人が見ても分かるテーマを選んでいるっていう。

小島さん自身、CMやミュージックビデオの製作をしつつ、今後も「NAMIKIBASHI」の活動は続けていくわけですよね?

「NAMIKIBASHI」の活動は、発信(表現)したことに対してきちんと反応があるので、通常の仕事とは趣きが異なります。今後も人から依頼される仕事だけではなく、自分たちで一から作っていける作品づくりは続けていきたいと思っています。

最後に、今後挑戦してみたいことを教えてください。

日本ならではの美意識を、映像を通して伝えていきたいですね。
例えばそれは伝統的な作法の話かもしれないし、着物の美しさに対する映像表現かもしれません。
日本人だからこそ表現できる世界観をCMでもその他の映像作品でも、表現し続けることが今の僕の目標かもしれません!って言いつつも、誰も見たことのない“ギリギリとんがった”映像も作っていきたいですが(笑)。

up




小島淳二

Junji Kojima/映像ディレクター/teevee graphics代表

1966年佐賀県生まれ。

1989年よりデジタル編集のエディターとして活躍。
その後ディレクターに転向し、1995年teevee graphics設立。
2008年4月より福岡スタジオを開始。
TVCM、MV等ジャンルを越えて多くの印象的な映像作品を輩出している。

2001年砂原良徳“LOVEBEAT”、2005年L'Arc-en-Ciel“叙情詩”、
2007年RYUKYUDISKO“NICEDAY feat.BEAT CRUSADERS”が文化庁メディア芸術祭審査委員会推薦作品に選出される。

スターフライヤー“就航記念篇”で2006年ACC賞ブロンズ受賞。

木村カエラ “Magic Music”でMVA07 BEST POP VIDEOを受賞。

ラーメンズの小林賢太郎氏と結成した映像ユニット”NAMIKIBASHI”としても活動中で、
その作品はRESFEST(USA)やonedotzero(UK)など海外の映画祭でも注目を集めている。

Jam Films 2の1本として劇場公開された“机上の空論”では、RESFEST2003にて“AUDIENCE CHOICE AWARD”を受賞。

”THE JAPANESE TRADITION?謝罪?”が2007年ベルリン国際映画祭短編映画コンペティション部門に日本からは31年ぶりとなる正式出品を果たした。

■ご連絡先
teevee graphics inc
150-0002 渋谷区渋谷3-3-10 秀和青山レジデンス512
t:03.3400.6455 070.6421.7708 f:03.5468.7048
www.teeveeg.com up

クリエーターズインタビュー

キャスティングのイースピリットがお送りする「クリエーターズインタビュー」広告業界で活躍するクリエーターの貴重なインタビューを掲載。今回は、小島淳二さんです。