多くの人に見られる快感 |
(略) ・・・植村啓一 ・・・e-Spirit まず、植村さんの原点をお聞きかせください。 絵は幼稚園の頃から教室で、水彩画を習っていたようです。ベタですけど絵に興味を持ったのはアニメです。僕の世代では、松本零士さんが流行っていたので──『銀河鉄道999』とか『宇宙戦艦ヤマト』とか──その辺を母親に描いてもらいつつ、自分で真似て描いていました。
小学校の頃もそのまま水彩画を続けられたんですか? あとは、落書きばっかりしてました。漫画の模写や、自分でオリジナルで漫画を描いてみたりとか。
東洋美術学校という四年制の学校に入るわけですが、当時影響を受けた人物や出来事は? 僕は一切学校に行かなかった。なんかみんなインチキな人ばっかりで。かっ飛んだ格好してみたり、自分のイーゼルの裏側に死体写真貼ってみたり。「俺ってちょっと変わってる美大生だぜ」みたいなアピールがすごくて。本当にそれでいいと思ってるの?みたいな。それに反発しちゃって、僕は普通の大学生と一緒に生活するというスタイルになっちゃったんですよ。
今でいうとイベントサークルですよね。企画力重視の。 みたいなことをしていたんですよ。だからまったく美術と関係ないですよね。
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個人として認められるには |
卒業後に制作プロダクションに入られるんですよね。 そうです。僕が大学4年生のときにデザインに目覚めて広告をやろうと思ったんですけど、「企画してデザインができればいい」という単純な発想だったからちっちゃい10人ほどの会社に入りました。
そのバイタリティはすごいですね。 今でもそういうところあるんですけど。で、じゃあ1週間後にもう1回電話してやれと思って。もう1回“あ”から電話したんですよ。それでも全部ダメで。じゃあもうあと2週間経ってもう1回電話してダメだったらちょっと諦めようかなと思って電話したら、あるプロダクションが興味をもってくれて、それが広告キャリアのスタートですね。
その後、毎日デザイン賞や、日経広告賞を1997年に取られるわけですが。 はい。ただまぁ、その当時はデザイナーとしての賞なので、今のディレクターの仕事とはちょっと質が違うような気がしますね。ただそういうものにも積極的にやっていたし、プロダクションに潜り込んだら、そこでじゃあ上がるためにどうしようと考えたときに、いろんな賞を取ったりとか個人的なものをやったりとかっていうのは積極的にやって、それをお土産に新しいところに入ってやろうという意識はありましたね。 |
今いわなきゃいけないことを伝えていきたい! |
アートディレクターとしては、サーチ&サーチ・ベイツ・読広や、オグルヴィ時代以降の受賞が多いんですが、当時植村さんはどういう姿勢で広告に取り組んでいたんでしょうか? これは20代前半にして生意気にも考えていたことなんですが、「なんで日本の広告ってタレントがいて商品売っているだけの広告が多いんだろう?」っていうことですね。しかも現場は忙しいじゃないですか。もう疑問だらけで。
普段植村さんが作品で心がけている広告表現とは? 僕の作品の場合はかなり毒を入れるようにはしています。 不況で広告料も減っていますが、このトレンドに対して考えていることはありますか? 広告主にとって「売り」に直結するような広告が増えています。でも、果たしてそれが必要なのか。本当は今こそブランドをちゃんと構築するべきじゃないのか。要は「今言わなきゃいけないこと、今やっていくことの真実を伝えていくべき」じゃないかなと。それが結果的に、景気が戻ったときにもうまく機能すると思います。
植村さん自身が今後チャレンジしたいことは? クリエイティブディレクター、アートディレクター、コピーライター、SPプランナー、インタラクティブほにゃらら…だんだんいろんな部門、人、クリエイターが増えていますけど、これからはそうじゃないんじゃないと思ってます。
最後に取り組みたいことや、面白いアイデアってありますか? そうですね、今まさにちょっとやっていたりするんですけど、街中を歩いていると知らない間に音楽をダウンロードして、その音楽を通じて何か伝えたりとか。
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